金なんかなくたって
金なんかなくたって、心が豊かで
誰にも迷惑をかけずに
好きなことをやっていけたら
これが一番幸せな人生なんだろうな。
俺は若いころから好きなこととなると
無我夢中になった。
だって、嫌いなことを無理してやったって
仕方がないだろう。
人間「得手に帆をあげて」生きてるのが
一番良いからね。
ただし、俺が好きなことばかりやってこれたのも
会社でも家庭でも
いいパートナーがいたからなんだ。
形は心なり
本田(宗一郎)さんはいつもしつこいくらいに
「いいものをつくるにはいいものを見ろ」
とおっしゃっていました。
ある時、こんな苦しい経験をしたことがあるんです。
「アコード」の四ドア版を作っていた時の
ことでした。
僕らのデザインチームは
四ドアを従来の三ドアの延長線上に考えて
開発を進めていた。
ところが本田さんは
「四ドアを買うお客さんの層は三ドアとは全然違うぞ」
と言って憚らない。
ボディは四角く。鈑金を付け
大きく高そうに見えるようにしろと言われるのです。
僕は内心、そんな高級車は
よその会社に任せればいいと考えていました。
ほんの気持ち程の対応しか見せない僕らに
本田さんは
「君たちはお客さんの気持ちが全然わかっていない。
自分の立場でしかものをみていない」
と日ごとに怒りを募らせてきます。
毎日よく似たやりとりが続き、我慢の限界を感じた僕は
「私にはこれ以上できません。
そんな高級な生活はしていませんから」
と口にしていました。
本田さんはそれを聞くなり
「バカヤローー」
と声を荒げ
「じゃあ聞くが、信長や秀吉の鎧兜や
陣羽織は一体誰がつくったんだ?」
と言われたんです。
大名の鎧兜をつくのは
地位も名もない一介の職人。
等身大の商品しかつくれないのであれば
世の中に高級品など存在しなくなる。
自分の「想い」を高くすればできる。
心底その人の気持ちになればできるんだ。
作り手は
その人が欲しいのはこういうものだ
ということが分からなければダメなんです。
創造する力ですね。「像」を「想」う。
その人になり切る。
それができなければよいデザインは生まれない
と教えてくださったんです。
僕が四十歳になった時
「形は心なり」
言葉がふと胸の中に浮かんできました。
やはりいい心で物を考えないといい製品は
できないし、型のいい商品はやはりいい心で
できるんだなと思うようになりました。
元ホンダ常務 岩倉信弥氏
(「致知」2007年8月号)
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本田宗一郎氏の生涯
明治39年(1906年)
現在の静岡県浜松市天竜区にあった
鍛冶屋の長男として生まれる。
宗一郎氏は6歳の時、尋常小学校に入学。
在校中に初めて自動車や飛行機を見ている。
宗一郎氏は15歳で尋常高等小学校を卒業。
現在の東京都文京区湯島にあった
自動車修理工場「アート商会」に入社。
半年間は、社長の子供の子守ばっかり。
21歳の宗一郎氏はのれん分けのかたちで
浜松市に支店を設立して独立。
宗一郎氏だけがのれん分けを許された。
1935年、宗一郎氏28歳で結婚。
翌年、第一回全国自動車競走に出場。
フォードに自作のターボチャージャーを付けたマシンで
出場するも事故により負傷し、リタイヤ。
宗一郎氏は自動車修理工場事業を順調に拡大し
1937年「東海精機重工業(株)」の社長に就任。
30歳の時、現在の静岡大学工学部機械科の聴講生に。
3年間金属工学の研究に。
1939年、アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡。
宗一郎氏は東海精機重工業の経営に専念。
1945年、三河地震により、東海精機重工業浜松工場が倒壊。
宗一郎氏は所有していた会社の全株を豊田自動織機に売却し退社。
38歳の宗一郎氏は「人間休業」と称して1年間の休養に。
1946年、宗一郎氏は浜松市に本田技術研究所を設立。
1948年に、本田技研工業を浜松市に設立。
二輪車の研究を始める。
1949年、ホンダの副社長となる藤沢武夫氏と出会う。
2人は共にホンダを世界的な大企業に育て上げる。
66歳の宗一郎氏は本田技研工業の社長を退き
取締役最高顧問に就任。研究所所長は続ける。
76歳で取締役も退き、終身最高顧問となる。
1989年、宗一郎氏はアジア人初の米国自動車殿堂入りを果たす。
1991年8月5日、宗一郎氏は肝不全のため死亡。
84歳の生涯を閉じた。